父の死を通して

※これは父が逝去する数日前から書いています。

 

父が脳梗塞で倒れて一週間。

一昨年癌で大手術。それ以降体が弱っていくのが目に見えるレベルで分かったのですが、ここ数ヶ月コロナ禍のおかげで会いにも行けず、ようやく会ってコンビニの買い物に付き合っておわったその後でした。

あまりにも突然すぎる。なぜ今なんだ。後悔先に立たずとはこの事で、おかえり寅さんのDVDを買おうと思ってたり、秋に休暇をとって旅行に連れて行こうと思っていた矢先でした。

担当医師の説明によると脳の人格を形成する部分が機能しておらず、生きてはいるが赤ん坊のような状態である。
このまま延命治療を続ける場合は重度で過酷な介護が必要になること、そして父親の尊厳のために延命治療をやめることも可能であることを伝えてくれました。
私は以前より父から「呆けたらそのまま死なせてくれ」と言われており、弟と話し合った結果延命治療をやめる選択をしました。

父は聞いていた通り虚空を見つめクネクネと体を動かしており、こちらの呼びかけにも応じる事が出来ず、時折暴れ藻掻いて検査、治療のための器具を外してしまうため危険なので四肢を拘束されていました。

「ここにいるのは親父の抜け殻だ。親父はもういない」

自然とそう思っていました。

私は職業柄年配のお客様と接することが多く、その中で何人ものお客様の死に触れることがあり、他人とは少し違った生死観を持っています。大好きだった祖母は痴呆症にかかり、その数年後脳梗塞で亡くなりました。痴呆症にかかった祖母をみた時も、声と姿こそ祖母であれどそこに祖母を感じることが出来ず、「あれは祖母の姿をした何かだ」と思っていました。
民俗学を勉強していく過程で中国の道教に触れる機会があり、「魂魄」の概念を知りました。魂魄の魂とは心を司る魂であり、魄は肉体を司る魂です。ずっと疑問に思っていた、痴呆症の祖母に祖母を感じることが出来なかった理由が氷解した気がしました。あのときの祖母は魄だけの存在だったのではないか。
それ以降私の生死観は独特のものとなり今に至ります。心がなくなってしまった人は魄だけの存在だ。しかしそれは生きていることになるのか?幸せなのか?
父親はもうここにはいない。なら、ここで別れを告げよう。俺は今まで親父にやれることはやった。心残りも後悔もあるけど、今更悔やんでも仕方ない。この日は何れ来たのだ。

昨日、親父の容態が悪化した知らせを受け、病室に出向きました。
そこで知らされた驚愕の事実。母の呼びかけに人格が機能していない父が体をねじって応えようとしたのだそうです。離婚した方がマシだろうと思えるくらいいがみ合っていたにもかかわらず。
まだここに親父はいる。そう思うと脳梗塞で麻痺状態の父の手を握り呼びかけました。
弟にも、弟の奥さんの呼びかけにも応じなかった父が私の手を強く握ってくれました。間違いない。ここに親父はいる。今までの俺の考えは間違っていた。しかし無情にも弱まっていく心拍数と血圧。

私はスマホを取りだし、自分の会心の出来である天の川の写真を見せ「見えるか?これ、この前撮ってきたんだ」と伝えました。
その一瞬、父の目に光が戻り、まだ動く左目を見開いて凝視。すぐに反応がなくなりましたが、血圧が少し回復したのです。偶然かもしれません。人間、心が弱まると都合のいいように解釈してしまうものです。だから私も、父に写真の感動が伝わったと思うことにします。

そしてつい先程父が息を引き取りました。最後を看取ったのは私のみで弟夫婦も、母も所用で帰ったあとでした。父が一人で旅立つことないよう残って最期にいてあげられた私は幸せなのかもしれません。父の死の瞬間は今も覚えています。2回苦しそうに息をしたあと、安らかに、静かに数回息をしてから引き取りました。

私のフォロワーには何人か私のように両親との確執を抱えている人がいます。親と子の関係は他人が容易に比較できるほど単純なものではありません。だから「仲が悪くても親孝行できるのはいまのうち」などと無責任なことは言いません。
ただ一足先に父の死を体験したものとして助言だけは聞いてください。

どんなに自分が尽くしても対象を失う直前やその後に絶対に後悔は出てきます。だから出来なかったことを悔やむより「これだけやってきた」という考えを持って自分を肯定してください。人間、残された時間にやれることなんて限られてます。
そして仲が悪くても、顔をみたくない間柄であってもその死を通して学べることは必ずあると思います。その死を通過点として先に見えるものがあるかもしれません。その死を決して無駄にしませんよう。どんな形でも今の自分があるのは、紛れもなく両親のおかげなのです。

 

今は悲しいけど涙は出ません。喪失感のみです。多分何かの拍子に泣くのかもな、という思いはあります。複雑な事情で私は成人してから家を出ており、年老いた両親のため復縁しましたが、今回は弟の傲慢さ、マウンティングに呆れるばかりでした。

葬儀の期間だからと最終日までいらつき、不満を気取られぬ様に、我慢したのはさすが俺と自分で褒めたいくらいです。あいつとは100%付き合いきれないし、世話になりたくもありません。法事などは我慢しますが、母親が亡くなった後はおそらく再び縁を切るだろうなと思っています。もともと縁を一度切ったから戸籍は私しかいない状態ですので。

私は長年サービス接客業に携わっているからなのか、感情は表立って爆発させることは少ないですが、そのかわり限度を超えるといきなり完全な拒絶対応をする傾向にあります。

老後?私はそう長生きはできないだろうけど急増する天涯孤独な老人のための福祉団体も増えていますし、各市町村にその窓口もあります。自分の死後のために共済組合も入ってますし、その辺を含めて近いうちに相談するつもりです。もともと60で身辺整理して命を断つつもりでいるのも老後の選択肢の一つですね。

私の様な天涯孤独な老後が予想される人のためにも自分の命を断つ選択ができる法制度、公共サービスが出来ないかなと思う今日この頃です。